戦前の反戦運動の具体例
表紙
「あめとかぜと
広島県戦前 左翼運動の手記」
岩佐寿一 編・著
あめとかぜと出版委員会発行 1985年
(抜粋して引用)
「はじめに 戦前の広島県左翼運動について」 (9ページ~17ページからの一部抜粋)
(略)
『唸るクレーン』
一九三一年(昭和6年)はじめの海軍工廠労働者の解雇に反対するたたかいのなかで、
全協組織と工廠労働者との連絡がついたのですが、くわしい記録はありません。
『中國新聞』によれば、
「呉工廠製図工、川窪鉄之助は、昭和六年四月の大整理に刺激されて、同年八月全協、
金属労働組合、広島支部に加入、呉工廠分会を各職場ごとの班別に組織し……
昭和六年九月に入党、重田安一らと工廠細胞を組織」とあります。
重田安一氏のおもいではつぎのようです。
「はじめ呉市中通りの田中書店の田中氏から、岨常次郎氏を紹介された。
そののち岨氏から寺尾一幹氏を紹介され、『これからは寺尾氏とレンラクをとってくれ』ということだった。
……寺尾氏と工廠にビラまきにいったことがある。
工廠の塀のところまでいって『ここからさきは、きみがかってをしっているからたのむよ』と寺尾氏がいうので、
私はビラのたばを塀のうえにのせ、塀をのりこえ、工廠のなかにはいって、ビラをまいたことがある。私は砲熕工場の旋盤工だった。
そとからは蒲田政雄氏がオルグとしてはたらきかけてくれた。
工廠内ではまず製図工にその影響がひろがったようです。
検挙者のなかに、「魚雷部製図工」「魚雷実験部製図工」「造船部製図工」など八名がいます。
呉地区、オルグの寺尾一幹氏が、党細胞の機関紙いわゆる工場新聞をだすことをすすめました。
(そのころ労働組合、全協の分会が機関紙をだすときは、全協の分会の名をいれてだすことになっていた。
党細胞がだすときは、工場新聞といっていた。)
重田安一氏のおもいでによれば
「職場のなかで、『こんど新聞をだそうとおもうんじゃが、なんかかいてくれんかいの、不平不満、そのほかなんでもえ』といって投書をあつめた。
わたしは、海工会の役員選挙に百三十票くらい得票があったほどで、顔がひろかった。
おやじも工廠ではたらいていて役づきだった。もっとも呉工廠の大整理で首になったが。
『唸るクレーン』のガリ版の原紙をきったのは、林寿恵子さんだろう。
外交官(領事)の娘で、寺尾氏が手が足りないのでよびよせたときいている」とのことです。
『聳ゆるマスト』
一九三一年(昭和6年)八月海軍内で、社会学研究会をつくっていたとして海軍をおいだされた
阪口喜一郎兵曹、西川兵曹、平原水兵、山口水兵、若林水兵が中心となって、
水兵対策委員会がつくられたと平原甚松氏は、かいています。
まだ水兵たちと党広島地方委員員会や呉地区委員会とはレンラクがなかったという。
阪口元兵曹は、「赤い本屋」の田中豊氏に、党へのレンラクをたのみにいった。
しかし田中氏からみれば、おいそれとひきうけるわけにゆかなかった。
田中氏のはなしによれば、「じぶんは、いわばおよがされていた。
本屋の前の家の二階、表の間に特高が、見張りをおいていた。
党関係のものが本屋にやってこないかと張り込をしていたわけだ。
そこへやってきた阪口喜一郎氏は、大きなからだの男で、もののいいかたもぶっきらぼうだった。
党へのレンラクをとってくれ、などゝいって、オルグをつりだしにかかっているのではないかとおもった」といっています。
阪口氏は、なんども田中書店にきた。あるときは、おくさんの野村梅子さんもきたということです。
田中氏は考えたすえ、寺尾一幹氏に相談した。「とにかく、あってみよう」と寺尾氏がいうので、
ある喫茶店で阪口氏に会わせて、田中氏はおもてで見張りの役をしたという。
あとで寺尾氏が「彼は大丈夫だ」というので、そののちは寺尾・阪口が直接レンラクをとることにしたそうです。
地区オルグの寺尾氏は、海軍細胞にも機関紙をだすことをすすめました。
題名は海軍のなかまで『聳ゆるマスト』ときめたという。
この『聳ゆるマスト』をだれが編集印刷したかということで、問題があります。
平原甚松氏は、一九六九年(昭和四四年)一〇月「じぶんがガリ版をきった」と手紙をよこしました。
寺尾一幹氏は、一九七〇年一昭和四五年一四月、「『聳ゆるマスト』は『捻るクレーン』とともに
じぶんがそれぞれの組織に機関紙発行を提案し、原稿は各自にかいてもらい、
じぶんが取捨選択して発行した。林寿恵子がガリ版をきった」とかいてきました。
寺尾氏から手記がよせられました。
それによれば、寺尾氏が呉で活動していたころ、京都時代の同志林寿恵子さん
(同志社女専三人組のひとりで、三人とも家をでて名古屋でバスの車掌をしていた)を呉によびよせ、
彼女が呉地区のガリ版刷りのビラ・ニュースなどを全部きった。
呉港中学の自治学生会のニュース『学生仲間』や呉工廠の『唸るクレーン』なども彼女が原紙をきった。
きれいな字だったといっています。当時工廠の労働者だった重田安一氏も、『捻るクレーン』はきれいな字だった。
林さんがかいたものだ。寺尾君が京都からよびよせたもので、領事の娘だとか聞いているといっています。
こうした準備があるから、寺尾氏は工廠労働者や海軍の同志に党の細胞機関紙の発行を提案したのだと思います。
平原氏はガリ版にはシロウトであり、また今日つくってあしたくばるというものでもない。
オルグのほうで印刷して十分まにあうものです。月二回発行にしたと寺尾氏はいう。
平原氏は「上部からの干渉介入は受けなかった。どこでどんなにして発行しているか、
地区オルグといえども知っていなかった」とかいています。
印刷は、シンパの留守宅(下宿の部屋)などをあちこちかりて、やったといっていますが、
これもおかしい。
ガリ版のヤスリ、ローラー、原紙、インクをのばす板、原稿などをもって、あちこち歩いたり、
シンパの留守宅(下宿の一間)にあがりこ人で、ガリガリいわせて原紙をきるなど、
疑われるもとです。
音のせぬよう原紙がきれたらプロ級です。
「『聳ゆるマスト』はザラ半紙二つ折り、二段ぐみ、四頁だてで旬刊発行。
一頁は時事問題について社説的なもの、
二頁は基礎理論的なもの、
三頁は下士官兵の待遇などに関するもの、
四頁上段は軍港のトピツク的なもの、
下段は必読書の紹介と編集後記的なもの」とも平原氏はかいています。
B4版のザラ半紙二つ折りの各頁に、それだけの内容を原紙でかきこむのは、よほど上手な人でもむつかしいでしょう。
しかも一〇日ごとにださねばならないのです。
寺尾氏は「そんな、手のこんだものではなかった。B4のザラ紙のうらおもてに刷ったものだ」といっています。
「『聳ゆるマスト』が四号までで、いったんとまったのは、私が検挙されたからだ。
平原君がひとりで発行していたのであれば、つづけて五号、六号がでているはずだ」と寺尾氏はいっています。
昭和七年五月一〇日寺尾氏は逮捕され、五月三〇日呉署から脱走、呉市に非常線がはられて、道をあるいていた平原君が逮捕されたとあります
(『大呉市民史」)。
平原甚松氏はすでになく、『聳ゆるマスト』の現物もみることはできません。
昭和七年三月五日、広島市を中心にはじまった一斉検挙は、四月から呉市での一斉検挙となりました。
五月十日特高刑事が、ポストに手紙をいれようとしている男が寺尾一幹氏ににていると逮捕したとあります。(『大呉市民史』)
寺尾氏によれば、「留置場のブタ箱は検挙された同志でいっぱいだったので、私は二階広間の隣の小部屋に入れられた。
ある日、部屋の出入口のカギがかけてないのでそこから逃げた」とのことです。
寺尾氏脱走のあと、呉市では非常線がはられ、道路をあるいていた平原甚松氏がつかまりました。
しかし警察は、ただ注意人物だからつかまえたというだけですぐに釈放しました。
阪口喜一郎氏も水兵関係のしごとを木村荘重氏にひきついで上京しています。
木村荘重氏によって、『聳ゆるマスト』第五号がだされることになります。
木村荘重氏は呉海兵団を満期退団のあと、広島市に家をかりアジトとしました。
広島市のカフエーリラスの女給、佐藤静枝さんが、呉市のカフエー摩天楼の女給となってゆき、
木村氏と水兵の間のレンラクをとることになりました。
のちに呉の水兵の一斉検挙をのせた新聞には、
「広島市のカフエーリラスの左傾女給純子にアジられて」と、佐藤静枝さんのことをかいています。
この左傾女給純子とは、花野フジエさんのことと思われます。
花野さんは福山地区の全協オルグとして活動中検挙され、起訴猶予になって、広島市で活動をつづけていたもので、
木村荘重氏の妹、右田美子さんとともに広島バスを目標にして活動していました。
食うために、リラスの女給をしていたころ、佐藤静枝さんにはたらきかけたものです。
カフェー摩天楼へは、小倉正弘水兵が時々いっていました。
月十五円の一等水兵の給料では、カフェーへかようのは苦しかったとのことです。
もっとも小倉正弘水兵は、海軍へ志願せよという父親に「月五円ずつ送ってくれるなら志願する」と交換条件をだして、
父親も約束どおり五円づつ毎月おくっていたという。
小倉水兵は、下宿をふたつ借りていた。そのひとつの下宿に左翼文書をかくしていました。
佐藤静枝さんは、小倉水兵がゆくと、カウンターのかげで文書をわたしてくれたという。
「彼女は小さい時から苦労したといっていたが、そのせいか年よりずつとふけてみえた。
当時僕が二〇歳で、彼女は二二歳くらいだったが、二四-二五歳くらいに見えた。
なんだか先輩の同志に会っている気がした」と小倉氏は思い出を語っています。
大切な文書をうけわたししているという気持ちもあったのでしょう。
『聳ゆるマスト』第五号は、つぎのようにしてつくられました。
呉の水兵からの原稿は、木村氏がうけとって広島市にもってかえり、古田稔氏が自分の家で原紙をきる。
その原紙は、黒崎保氏にわたされ、彼が自分の家で『聳ゆるマスト』に刷りました。
古田稔氏は広島一中から早大に進み、学生運動で退学処分になって、広島市にかえっていました。
黒崎保氏は「3・5事件」で検挙された、共青同盟広島地区責任者、吉岡道人氏の弟です。
『聳ゆるマスト』は呉にもちこまれて、小倉水兵にわたされ、彼から軍艦の同志にくばられました。
『聳ゆるマスト』第六号がガリ版で刷られ、呉にもちこまれたところで「10・30事件」の一斉検挙があって、
呉海軍の水兵やオルグの木村荘重氏、ガリ版に協力した古田稔氏なども逮捕されました。
第六号の記事について、判決理由書には、要旨次のような記述があります。
軍艦「白鷹」で夜中に士官どもが酒をのんでさわぐので、ある水兵が静かにしてくれといったところ、
あべこべに士官どもから「注意」をうけた。このことを『聳ゆるマスト』第六号でとりあげて
水兵にたいする不当な圧迫だと抗議した。士官どもの与えた「注意」とは勿論暴力です。
党オルグ錦織彦氏、木村荘重氏、水兵小倉正弘氏が協議して、
士官に不当な取扱があったときは、水兵は団結してあたれと、アジることをきめています。
「現役満期強制延期反対」の記事ものせたようです。
このことについて、小倉正弘氏は、おもいでを、かたっています。
「だれも兵隊で一生めしをくうつもりはない。
海軍へ志願してはいったのは、どうせはたちになったら兵隊にとられるから、はやくいって、
はやく出たほうが杜会にでて仕事にはやくつけるとおもったからだ。
「満洲事変」がはじまると、しばらく再役せよといってくるようになった。
ほとんど強制的だ。いつまでも海軍にいたら、杜会にでてから仕事をさがしてうろうろせねばならん。
はいったときとはなしがちがうとみんなブウブウいった。」
(略)
「水兵の検挙」
「三月三〇日熱海温泉で共産党検挙をおこなったとき、海軍関係の文書があったことから、
警視庁ー広島県特高課ー憲兵とレンラクがあった。
呉署特高係は、かねてめをつけていたカフェー摩天楼の女給、佐藤静枝をひそかによんでとりしらべた。
そして呉にいる水兵グループ六名および海軍を兵役免除になっている山下達吉が、事件に関係があるとめぼしをつけた。
ただちに海兵団、軍艦から小倉正弘、北田建二、佐藤彊、山口義次、稲垣宏、宮内謙吉の6名を憲兵隊が検挙。
呉の水兵検挙は十一月七日となっています。
平原甚松氏は一〇月三〇日熱海温泉会議でつかまり、呉署におくられてきました。
木村荘重氏も滝川恵吉氏の検挙につづいて検挙されました。
『聳ゆるマスト』5号、6号の原紙をきった古田稔氏は、広島の歩兵11連隊にはいる直前に検挙されました。
彼は二年の刑をおわってでると朝鮮竜山79連隊にとぱされたとのことです。
坂口喜一郎氏も東京で検挙され、呉憲兵隊に留置されたことが新聞記事にみられます。
なお阪口の妻、野村梅子さんは呉署に検挙されたが、阪口氏が口をひらくまでいっさい口をわらず、がんばりとうした。
「手記」 その一 寺尾一幹
(略) (44~47ページ)
海軍工廠のほうは、まだ端初的とはいうものの、川窪、重田らを通じてつよいキズナでむすばれていたが、
他方、水兵のほうは全然手掛かりもつかめず何からはじめたものかと、思案するしかなかった。
しかし、まもなく、そのチャンスが到来した。
それは当時すでに退役していたが、坂口喜一郎、坂口をへて平原甚松と接触できたことである。
田中豊は、呉の目抜き通りにある、友田書店の店員をしていた。
のちにはこの書店をゆずりうけ、田中書店という書店の経営者になった。
岨からのひきっぎでは、田中は常時店にいなければならず、あるていど特高からもにらまれている、
また商人肌で軽はずみのところもあるので、党員・共産青年同盟員への加入はさしひかえているとのことだった。
しかし田中は、寺尾との関係では重要な役割をはたしてくれた。
阪口を見出だし、寺尾に紹介したのもこの田中であった。
阪口は書店によって田中にあい、左翼的組織との連絡がつかないかどうか、それとなくさぐりをいれてきたとのことである。
当時、阪口はよく着物のうえに二重まわしを羽織って、往来していた。
おまけにロヒゲなどもたてており、一見してうさんくさいとおもったのも無理はない。
だが、満更でもないと判断して、寺尾に紹介してきたのだった。
さらにつづいて、はじめての現役、木村荘重一水兵一、稲垣宏一兵曹一、そして佐々木万寿司(海軍工廠)、
城戸薫(広村小学校教員)を寺尾に紹介してきたのも田中だった。
田中は書店の店員をしており、左翼出版物をさがしたり、買ってゆく人に目をそそぎ、
積極的にはなしかけたりしてくれていた。
また田中は、お互同志の連絡が何かの事情できれた場合、その連絡復活もしてくれた。
寺尾はイモヅル式の検挙を防止するという観点から、すべての連絡は街頭でおこなっていた。
どこかの部屋のなかで話しあったりしたことは、一度もなかった。
これはどうしても、個人的指導というマイナスがあるが、やむをえなかった。
ただ、城戸のところへは二-三度訪ねたことがある。城戸の学校は、まだ農村地帯ともいえる郊外にあった。
たまたま訪ねたときが、この村の祭礼にぶつかり、大変ごちそうになったことをおぼえている。
生徒の父兄の家からもってきてくれた料理だといっていた。
先生は大変人柄もよかったので、父兄の信頼もあついのだろうとおもわれた。
さて田中を通じての連絡復活だが、一方の側が田中のところへ、日時場所を指定した
レポをおいておけば、他方がそれをうけて復活するのだった。
田中はそのほか、最初は自分の給料から、自営するようになってからは、
その資金のなかから、毎月かなりのカンパをよせてくれていた。
徴兵適齢期がきて検査合格し、入隊してくる陸軍とちがい、水兵はまだ少年期ともいえる一七~八歳で志願して入団していた。
志願兵だけでは人員がたりない場合に、徴兵検査合格者をまわして補充していた。
自ら志望して入団するくらいだから「御國のためにつくす」という心情も、はじめのころはつよくもっていたにちがいない。
しかし水兵生活を通じて、杜会的な、また軍隊内部の矛盾を感じ、
当初の志願のなかにもふくまれているとおもわれる、人生に対し積極的にたちむかうという心がまえから、
智識欲もあり思想的な転換もおこるのではないかとおもわれる。
そして軍艦にのれば生活は閉鎖的になり、喧嘩もあろうが、お互の親睦感もわいてくるのではないかとおもう。
また階級により、日数の差はあるが、外泊しており、気のあったもの同志で町中に部屋を借り、
そこへ私物の本などをおいても、一応憲兵や上官の監視の目からのがれてすごすことができた。
当時、寺尾は水兵の特殊な性格環境などについて、その他にもいろいろ、例えば機関兵の労働者的な面など、
思いめぐらしていた。
工廠労働者を対象とした『唸るクレーン』、水兵を対象とした『聳ゆるマスト』が発行されたが、
その発行の意図、そしてどのようにして作成されたかは、つぎのとおりであった。
呉市中通りのめぬき通りに大きな書店があった。
ここの店主は田中さんといい、丁稚からたたきあげた生粋の商人だったが、
進歩的な人で、かって党や全協の連絡役をつとめ、全協検挙のとばっちりをこおむり、
当時の新聞に写真入りで報道され、赤い本屋として有名になっていた人だった。
阪口君はこの田中書店の主人に目をつけ客をよそおい、細心の注意を払いながら再三に亘って連絡をとり続けた。
年末もちかい一二月にいたって、やっと呉地区オルグ寺尾一幹君に会えた。
念願の初会見だ。ここに呉海軍水兵対策委員会の代表と呉地区のキャップが結びっきえたのである。
両者の度々にわたる打ち合わせにより、話は急速に具体化し、組織はすすめられ、
呉地区委員会の一翼に軍事部が構成され、初代の責任者に阪口君がすわった。
だから阪口喜一郎君は党軍事部の産みの親であり創設に大きな役割を果した者の一人である。
海軍を追放されると早速、呉市内の山手に家を借りて、阪口君は生命保険の外交員、
妻君は日の丸デパートの売子で生計のめどをたてたが、阪口君はひとすじに党活動に専念し、
外交員の収入もほとんどなく、生活は随分苦しくて妻君は恥も外聞もなく生活費の算段にはしりまわった。
いまや端初的とはいうものの、核ともみるべき組織を工廠労働者、水兵のあいだに組織することができた。
各自は自分の周囲に働らきかけて革命的左翼的な影響力を、ひろげてもらうことにしていたが、
これも漸次のびていた。しかし個人的に親しいとか、共鳴しているというだけではどうも組織としてよわく、
どこからどこまでがわれわれの仲問か、それを固めることを寺尾はかんがえた。
そのために、ニュースを発行し、その内容は工場・水兵の中にある矛盾、要求、不満などを、
投書としてまとめその他の記事では、すでにはじまっている、中国侵略の本質をあきらかにするなどを考えた。
この投書以外の原稿は、寺尾がかいた。B4判一枚、うらおもてのものだが、三分の一ぐら
いは寺尾がかいたものであった。
寺尾は、このニュース発行計画は、水兵対象のものは阪口に、工廠労働者対象のものは川窪、重田らに提案して賛成を得た。
ニュースの題名はそれぞれに考えてもらうことにしたが、阪口からは、若干のもののうち『聳ゆるマスト』にしたい、
工廠関係のものは、川窪から『唸るクレーン』がよかろうということになり、そのような題名にした。
『聳ゆるマスト』も『唸るクレーン』も二月中旬頃、すでに題名もきまったので、ほとんど同時に、創刊号を発行した。
月二回ていどの発行が適当とおもわれたので、五月上旬寺尾が逮捕されるまで、それぞれ四号まで発行している。
どちらも創刊号よりも二号、三号と、刷部数もふやしていった。
当初は三〇部くらいだったが、だんだん増して五〇部以上刷るようになった。
ニュースを通じて影響力をつよめ、組織をひろげるという寺尾の所期の目的は、一応成功したといえる。
しかし、もしこのニュースが、一部でも敵につかまれたら、弾圧のきっかけになりはしないかとの懸念もあった。
すべて信頼できる相手だけに、手渡しで配付することにして、広範囲にまきちらすようなことはしなかった。
また配付の系統も、『聳ゆるマスト』をたとえ仲問であっても
工廠労働者や街頭の人たちにも手渡すようなことはしなかった。
『唸るクレーン』も同様であった。刷り部数がすくないのもそのためであった。
また発行者の署名も、本当は党の出版だったが全然記入しなかった。
原稿や編集については、まえにものべたが、印刷は寺尾が京都時代から知りあっていた林寿恵子を
よびよせていたので、ガリキリは彼女にやってもらった。彼女は上手な字をかくので、キレイな印刷物ができた。
ただし、寺尾がガリキリをしたものも少しはあった。寺尾は字が下手なので、出来のわるいものは寺尾がやったものである。
その他の者に編集印刷をやってもらったことは全然ない。
(略)
呉における印刷作業の実状についてのべる。当時呉には活用した謄写版は一台しかなかった。
『聳ゆるマスト』、『唸るクレーン』、それから寺尾が原稿をかいた、三~四種類のパンフレツト、
街中に貼った伝単(ポスター)、ビラは、すべてこの一台の謄写版で作成した。
謄写版印刷も至極簡便なやりかただった。簡便といっても鉄筆、ヤスリ、ゴムローラーはどうしてもいる。
原紙やインクも勿論必要だった。しかし、インクをのべる板、原紙をはりつける枠、そして一般には、
これら諸器具を収納するかさばった箱がついているのが「一式」ということになる。
しかし寺尾は枠やインクののべ板はつかわなかった。
まず枠だが、これは厚手のボール紙の、中を四角にくりぬいて、原紙をとりつけ、
焼け火箸を周囲にあてると簡単に付着する。
ボール紙があたらしいときには、ローソクをたらした。
この原紙のうえをローラーでころがすと、スクリーンなしで二〇〇回以上は原紙ももち、立派に刷りあがる。
またインクののべ板は、窓ガラスをつかい、この上にインクをたらしてローラーでのばした。
ボール紙をつかうのは寺尾の独創ではない。
忘れてしまったが、誰かからこのヒントを耳にしていた。
大抵は黒をつかったが、伝単などは赤をつかったり、二色ずりしたこともある。
ローラーも、のべ板もひとつしかなかったので、切りかえのとき、ローラーやのべ板を多少インクおとしをやっても、
とりきれず、色のまざった茶色の印刷物もまじった。
すりあがったもので、『聳ゆるマスト』は阪口に、『唸るクレーン』は川窪にわたして、配布してもらった。
伝単類やビラなどは、水兵をのぞいて他の諸同志の力を借りて街頭貼りをした。寺尾白身
もこれをやった。
(略)
「『聳ゆるマスト』の人々」
(略)
三、平原甚松氏からの手紙 (77ページ)
(略)
さて、おたずねの名称は『聳ゆるマスト』です。「そびえるマスト」ではない。
現在の当用漢字にはないが、漢字で「聳ゆる」です。
題字の下の絵のカットは戦艦のやぐらマスト(櫓マスト)のシルェツトで、そのため、
「マスト」の三字は黒地に白ぬきの宋朝体ゴジツクでした。
「聳ゆる」の字は天空にあたる部分に位置するので黒字でややくずした楷書でした。
この名称(平原案)は軍艦細胞の編集会議に提案し採択されたもので、その他にも「潜望鏡」(阪口案)
「水兵」「戦艦」など、いろいろ提案されたが、呉海軍工廠の全協機関紙(注、工廠党細胞発行の工場新聞)
『唸るクレーン』とのこともあり結局『聳ゆるマスト』に決定されたわけでした。
軍事部オルグであり、水兵出身で事情にあかるいため私が中心になって編集会議、原稿あつめ、印刺、配布などやりました。
印刷はシンパの留守宅など転々いたし、けっしてアジトではしないことにしていました。
旬刊でした。編集会議のこと以外は、地区オルグといえども知っておらず、どこでどんなことをして発行しているか、
私以外のだれも知っておりません。党軍事部は特殊活動あったため、厳格にこれを守っておりました。
「呉海軍の思い出」 平松甚松
(略)
三、『聳ゆるマスト』の創刊前後 (84~85ページ)
(略)
山下達吉二等主計兵をそっと訪ずれると、彼は目をまるくしておどろき
「ポリ公かたの横で危険なのに、よく来てくれた」と大変よろこんでくれた。
こんなに同志より心からよろこばれたことは、あとにもさきにも、これがはじめてであった。
彼より艦艇のうごき、予備艦の上陸者その他の状況について詳細にききとった。
活動方針に対する具体的な意見もあった。
あたまのよい、きもったまのすわった水兵さんで、『聳ゆるマスト』の拡大に、たいへん力をそそぎ、
しかも編集に対する意見も積極的におこない、みずからもペンをとって寄稿し、行動力のある同志だった。
そのほかの同志にも順次連絡をつけて、顔なじみの連中のなかには、社研事件の見舞をいってくれる
ものすらあって、心はむすばれ固まっていった。
呉地区軍事部の機関紙の必要を、いちばんさきに提唱したのはオルグの寺尾君である。
そこで平原は早速、阪口君に連絡をとって、このことについて合議をはかった。
山下君、山口君にもそれぞれ個別に相談した。
みな双手をあげて賛成。ここまでは、たやすくはこべたが、サアこれからが大変だった。
印刷機がない。ローラーもない。印刷インキも紙もない。肝心の配布網もできていない。
これらの諸材料を市内で購入すれば.アシがつく危険性が充分ある。そこでポンポン船にのって、
一日がかりで市外へ買入れにでた。
その材料でコツコツ音のせぬようにボール紙で手製の謄写機を造り具体的に活動をおしすすめることは、
実にたのしいものである。
印刷の準備は万事OK。『聳ゆるマスト』の編集方針はあらましつぎのとおりであった。
一、一頁は時事問題についての社説にあたるもの
二、二頁は主として基礎理論的なもの
三、三頁は下士官、兵の待遇などに関するもの
四、四頁上段は軍港のトピック的なもの。 下段は必読書の紹介と編集後記的なもの
五、其他文章を平易に、記事は具体的に、特に三頁は切実なものを
はじめてで調子がでないか、たのんでまわった原稿がしめきりまでにでてこない。
かけずりまわるが海上からの上陸兵には階級に応じて、それぞれ制限があって、上陸日まで待つよりほかはない。
創刊号の巻頭をかざる「発刊の言葉」をオルグの寺尾君にすでに依頼してあったので、
街頭連絡でこのことをいったが、彼はまだ書いていないという。
やむなく、その代役を阪口君にたのむと「オルグがそんな無責任なことでは駄目じゃないか」としぶい顔で
早速原稿をくれたのは有難かったが、その原稿の内容が、マルクスだ、レーニンだと、
その引用文が多く衒学的でそれに朱筆をいれるのにほねをおったのを今でもおぼえている。
『聳ゆるマスト』はザラ半紙ニツ折二段ぐみ四頁だて、旬刊発行の党呉軍事部の機関紙であった。
外形的には貧弱な印刷物ではあったが、なかみは反戦問題を中心に多彩な記事がのり、
啓蒙書として水兵達に人気があった。
特筆すべきことはこの機関紙が海軍部内の下士官、兵からの執筆寄稿を中心に編集されていたことである。
このことは党のあゆみにとって決定的に重要なことである。
原稿依頼、原稿あつめ、もちまわり編集会議、校正、ガリ切り、プリント、配布、反響調査など、
ずいぶん手工業的な労働と時問をかけ、発行まえはテンテコまいであった。
『聳ゆるマスト』の創刊号は一九三二年一昭和7年一二月に発刊され、約四〇部くらい配布していた。
もっとも、そのうち五部はオルグ寺尾君に上部機関への報告用として手渡していたから
実際に軍隊内部に配布したものは三〇部余りであったろう。
そのご、この水兵さんたちの、うけが案外によくて配布網のメンバーから増刷の申し入れなどがあり、
第三号ごろからであったろう漸次部数をまして七〇部-八○部くらいにふえ、
平原がとらえられたころには一〇〇部ちかくにのびていった。
号をかさねて三月をむかえたある日、オルグ寺尾一幹君が呉署に検挙された。
そのとき、すでに多くの同志が留置場にあふれるほどひっぱられ、地区委員会もカラッポにちかかったが、
ただ軍事部のみは例外的に健在で、『聳ゆるマスト』を通じ傘下はしだいにふえつつあった。
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